みそ汁じいさんの歯ぎしり

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 自分をうたがう 全てをうたがう

 1967年 21才。順天堂大学体育学部の学生だった僕は東京大学の校舎の中にいました。校舎の階段には人の頭程の石がたくさん並べられていました。他セクトの襲撃にそなえるものです。そんな物を上から投げ落としたら人が死ぬぞと思いました。校舎の屋上で二列に並ばされ、ゲバルト棒(ゲバ棒)の訓練を受けました。それはまるで戦時中の竹やり訓練とそっくりでした。その時の僕にはまだ理性が残っていて、『こんな暴力で世の中が変わるわけがない』と思いました。それを機に暴力を伴う学生運動から身を引きました。

 今、大阪熊取町に住んでいる孫が全国から数名の聴講生に選ばれ月に数回東京大学に通っています。忙しい仕事のあい間、お金もかかる中、それはそれは嬉しそうに通っています。高校を卒業して6年間、宮大工の棟梁の下で修業し、二級建築士の資格を取得した孫が建築の勉強に通っています。じいさんはゲバ棒、孫は建築。同じ木材を扱いながら、この違いは何なんでしょうか。でも僕は僕の青春、孫は孫の青春を生きている。それでいいのではないかとも思います。その時はその時でこれが正しいと思って生き、行動してきたのです。78才の僕の考えも一年後には変化しているかもしれません。

かつてダウン症の子どもは10才ぐらいしか生きられないと言われていました。しかし今は平均寿命は約60才になっています。赤ちゃんのうつぶせ寝で窒息することはない。身体機能の発達を促すなどと言われ、うつぶせ寝は多くの保育所で実践されました。赤ちゃんの突然死の事例が増え、今では多分うつぶせ寝を実施している保育所は日本中で一か所もないと思います。今、通説になっている全てのことがらについても疑ってみる必要があると思います。障がいについても同じ事が言えるのかもしれません。発達の速度に違いはあるにしても、人が人である限り、人格形成のプロセスは同じだと思っています。顔を洗う、歯をみがく、手を洗う、風呂に入る、おしりをふく、はしを使うなどの諸々の日常生活の力、楽器、歌、絵、スポーツ、料理、味覚、ひとを思いやる心、仕事、社会に役立っているという自覚と自信。数えきれない程のこれらの事も教えてもらい、実際やってみなければ身につかないのです。私自身もこうした経験をへて今があるのだと思います。もちろん、障がいの有無に関係なく個人には各々個性があり、それを無視して無理な事を押しつけることは絶対にあってはならないと考えています。

 全ての人間には全面発達の可能性があると思います。その為には障がい者を特別視して『障がい者あつかい』するのではなく、普通に接することが大切だと思っています。

 以上の考えも一年後にはどうなっていることやら。一番疑わしいのは自分。自分を疑っています。

                                             5月20日